聖なる強化書

グータラ求道ブロガー・聖ちゃんによる「強くなりたい」に応える求道ブログ。 自重トレのマイスターにして「アンチスポーツの急先鋒」です。目指せ!東京オリンピック中止!!

カテゴリ:聖さんの成功法則 > コミュ力

私はコミュニケーションを、なぜかテニスでイメージすることが多いです。
テニス経験皆無なのにね。
強いて言えば、「テニスの王子様」の愛読者ってことくらいか。
ちなみに一番好きなキャラは、「新」になってからネタキャラと化しつつある立海の真田。
まぁそんな個人的な話はどうでもいいとして。

そんな私が、「こりゃぁ嫌われるな」「でもこの人気づかないんだろうなぁ」と思うパターンを、
テニスにたとえてご紹介しますね。




そもそも「いいコミュニケーション」「うまくいくコミュニケーション」とは?

コミュニケーションがうまくいった時って、
「楽しかった」「もっと話したいな」という感覚を得られるものでしょ?

逆に、イマイチ上手くいかなかったり、ハッキリ言って苦痛な場合は
「はよ時間が過ぎ去らんかね」「あぁ〜やっと終わった!もう二度と会いたくねぇ〜!!」
って思うもんじゃないですか?

これをテニスで言うなら、
球をラケットで打ち合うラリーが上手く・長く・気持ち良く続くほどいいコミュニケーション
(※これ重要!よく覚えておいてね!!)
となります。

逆に悪いコミュニケーションってのは、
ボールのラリー(つまり会話)が続かないってことだし、つまらないし、結果として苦痛なもの。


なんでも勝ち負けで考える「バトルタイプ」は要注意!

私が「バトルタイプ」と名付けている人種がいます。
自己主張が強く、何にでも勝ち負けにこだわるタイプの人ですね。

良く言えば向上心が強い人なのですが、
悪く言えば精神年齢が10代でストップしている感じの人。

子供、特に男の子って下らないことでもイチイチ
「どっちが勝ったか負けたか」
「白か、黒か」
「上か、下か」
「正しいか、間違ってるか」
にこだわるでしょ?

書き方で分かったと思うけど、私はこのバトルタイプが10代の頃からめちゃ嫌い。
というか、いい歳こいてガキな人が大嫌いなんです。


論破?バカだろお前。

で、なんでバトルタイプの話を持ち出したかっていうと、
彼らはとにかく何でも、イチイチ「勝とう」とするので、
上手く・長く・楽しくラリーを続けるコミュニケーションの中にも「勝負」の要素を持ち出してくるんですね。

つまり、
相手が返せないような場所に球を打ってきたり、
相手が返せない威力やスピードで球を打ったり、
それで
「はい、論破アァァ!!」
とかドヤるんですが、
バカか?ガキか??お前。って感じ。
普通に楽しく会話している所で、いきなりトンチンカンなことやり始めて、
ラリーの流れをぶった切っておいて、それで勝手に勝利宣言してるだけなので、
周りからすれば喋るのもアホらしくなってくる。

本人はいい気になっているから、なんで自分が嫌われてるのかも気づかなかったりするしね。
周りが中途半端にチヤホヤしている環境に浸かってると、もう絶望的。
そのコミュニケーション能力と精神の幼稚さのまま、50代や60代になって、
周りの人間に害を撒き散らす人害となり下がるのです。


んで、以下にもうちょい細かく「嫌われるコミュニケーション」を分類してみます。

嫌われるコミュニケーション「一方的な壁打ち」

長く、楽しくラリーを続けるのがコミュニケーションなのに、
相手に全然打たせないで、自分ばっかり球を打ち続けるタイプですね。

どういう人かというと、
相手の話を全然聞かず、「自分が、自分が」と聞いてもいない自分の話を始め、それも延々長く話し続け、
ひどい場合は他人の話をぶった切ってまで自分の話を始めるタイプ。

私の父がまさにこのタイプで、やられる方からすれば、
「壁にでも球打ちしてろよ」
って感じ。こういう人と話していると
「まだ終わらんの?」
「話なげぇーよ」
「はよ終われよ」
という心の呪詛が1分の間に100回は浮かぶものだし、

ようやく終わって解放されたら、どっと疲れが出てきて
「あぁ〜!やっと終わった!!」
となるものです。

嫌われるコミュニケーション「コート内を走らされまくる」

テニスで勝つには、テニスの王子様の海堂や跡部様のようなスタイルで、
相手を走らせまくってスタミナを削り、返せない場所へボールを打つという戦略もあります。

でも、勝ち負けとは関係のないコミュニケーションの場でこれをやると、嫌われますね。
例えば、「旅行に行って楽しかった国・県」の話(ラリー)をしている流れの時に全然関係のない話、
「俺は昔、めっちゃ喧嘩が強かった!」
みたいな話をいきなりしてくる人。
話してやってる立場からすれば
「なんで今、その話になるんじゃ?アホの子かこいつは??」
となるんですね。


あと、別パターンで、
何かを話したり説明したりしている時に、
論理や順序がメチャクチャなタイプも、話していて疲れますね。
「A>B>C>D」の順で話さないと伝わらない話なのに、
いきなりDの話をするタイプ。

あるいは、
「C>B>D>A」
と、思いつきで話すので、こっちが一生懸命質問し返しながら論理を組み立て直さないといけないタイプもいますね。

あと、「A>B>C>D」の話をしている時に、全然関係ない話「甲、乙、丙」にまでとっ散らかって、
話も長くなり、論理もメチャクチャになるタイプもいます。


こんな風に、コート内を無駄に走らされると、疲れるし、楽しくないので、嫌われます。

嫌われるコミュニケーション「体へボールを当ててくる」

要は攻撃してくるんですね。人格とか、好みとかをね。
そうするとラリーがそこでぶった切られるし、何より痛いので、

「二度とこいつとはラリーしねぇ!」
となるか、

「死ね!クソが!!」
とやり返すか、
どっちにしても楽しいコミュニケーションなんて夢のまた夢となるのです。

まとめ:嫌われないコミュニケーションのコツ

テニスのラリーにたとえて、テニス経験皆無の人間が説明しました。
悲しいかな、こういった嫌われるコミュニケーションをしてくる人って、そのことを(ワザワザ)指摘しても、受け容れる器がないんですよね。
 ・聞く耳を持たない(壁打ちタイプ)
 ・整理し、まとめて、血肉とできないアタマの持ち主(走らせるタイプ)
 ・「攻撃された!」と勘違いして反撃してくるどアホ(当ててくるタイプ)
だから、よっぽどのきっかけがない限りは、彼らはずっとそのままなんでしょうね。

そんな彼らのことを反面教師として、私たちはいいコミュニケーションをしましょう。
いいコミュニケーションとは、
ラリー(球。つまり会話)が上手く・長く・楽しく続くコミュニケーションなので、
上に書いた「嫌われるコミュニケーション」の逆をやればいい。

まとめると、

 ●自分ばっかり打つのではなく、相手にも打たせて、
 ●返しやすい場所へ球を返してあげて、
 ●ラフプレーは絶対しない。ラリーが終わった後もケチをつけたり喧嘩を売ったりしない。

のが、良い会話のラリーの秘訣。
イマイチ会話が上手くいかなかったり盛り上がらなかったり、疲れたりした時にはこのことを思い出してみてね。


ではまた。


▼「バトルタイプ」について詳しく知りたい方はコチラの本が参考になります。


▼テニスの本ですが、テニス関係者だけに読ませておくのは勿体無い名著です。

そういや最近全然ブログ書いてないなぁ〜と反省はしている今日この頃。
私がEvernoteで毎日つけてる日記から、
「この記事はみんなの役に立ちそう!」
と思える文章を抜粋して載せる手抜き記事をお届けしますね。



坂爪圭吾さんのブログより〜高校を中退した17歳の女の子の話

坂爪圭吾さんの昨日のブログに書かれていた、高校を中退した女の子の話はとても示唆に富んでいる。

簡単にまとめると、この(元)女子高生に対して周りの大人たちは、
彼女が何かを言う前にあれこれと(勝手に)気持ちを代弁しようとしたり、
彼女が求めたわけでもないのにアドバイスやお説教をしたり、
そのくせ(=彼女の話を一向に聞かないのに)、彼女を質問攻めにしたそうだ。
後で坂爪圭吾さんが彼女に問うたところ、 

「あのひとたちとはコミュニケーションがとれないと思いました」
「まだ何もわたしのことを話していないのに、このひとたちはいったい何のアドバイスをしているのだろうかと思いました」

ということを、怒りを込めることもなく、悲しさを帯びることもなく、
ただ冷静に淡々と述べていたそうだ。

精神的テロリスト

言ってしまえばこの手の人たちは、
仲良しでもないのにヅカヅカと心の中に入り込んできて、自分の都合や感情で好き放題荒らしまわっていく精神的テロリストであり、
話が通じない(=聞く気がサラサラない)ので、言葉でなんとかしようがない人種だ。

これとは別で、
『わざと曲解する人』『故意・悪意をもって捩じ曲げる人』
もまた精神的テロリストである。

高校時代の渡邉(実名出しちゃった。まぁいいや知るか)がまさにそうだった。
仲良しでもなんでもない顔見知り程度の関係なのに、いきなりヅカヅカと私に向かってニヤニヤしながら
『お前、母親のことママって呼んどるやろ?』 と言ってきて、
何度私が『いや、違うよ』と言っても一向に聞こうとしなかったので、
『あぁ、そういうことにしたいんだな』と呆れ・諦めつつ悟った。

そんで案の定、渡邉は
『お〜い、コイツ、母親のことママって呼んどるんやぞ!ダッセ〜〜!!』
とクラス中に言いふらしていた。

「話すだけ無駄な人間っているんだなぁ」
と実感した私の体験だった。

話の通じないアホへのシンプルかつ効果的な対処法

こういった精神的テロリストに対してどうするか?
岡田斗司夫さんが何日か前のメルマガで書いていたように、
基本的には
『あと何秒でこの場を立ち去るか?』
を己に問うことである。

また、セミナーなどの自分が主催する集まりの中にこの手の人間が紛れ込んだ場合は、
『あと何秒でこの場から追い出すか?』
を己に問うのだ。
実例として、岡田斗司夫さんが同志社大学で行った講演に紛れ込んでいた精神的テロリスト(というかキ◯ガイ)への
鮮やかな対処法を以下に動画で貼り付けておく。

(※20分〜23分くらいの出来事です。)


テロリストには言葉ではなく武力をもって応えるのが原則。
つまりは精神的テロリストとは、さっさと物理的に距離を置くのだ。
これはシンプルだけど、とても効果的。
臭いものには蓋をし、目に見えないようにすることで無駄に傷つくこともない。
彼ら精神的テロリストには、自分の知らないところで幸せになってもらうよう祈っておこう。

その意味で私は、長年父親とも物理的に距離を置くようにしているんだけど、
これは話し出すと長く&ウザくなるので、あまり期待せずに待っていてね。

他人の物差しではなく、自分の物差しで生きていこう

立ち去ったり、追い出したりすることで色々言われることもあるだろう。

でも、それが逃げだろうと負けだろうとダサいことだろうと知ったことではない。
奴らの勝手な物差しで語っているだけで何の客観性も合理性もない。
勝手に喚かせておけば良いのだ。


「セルフ1を極小化して無となり、
セルフ2を極大化して無限となり、
セルフ3と出逢って無限光となる。」



「こころで打つ!インナーテニス」はテニスをする人だけに読ませるにはあまりに勿体無い良書で、
私自身、テニスなんて全くやらず、
「テニスの王子様」を愛読する程度の関わり方しかしていないけれど、インナーテニスで述べられている考え方はとっても参考にさせていただいている。



その教えを一言でまとめると
「セルフ1(顕在意識)を極小化し、セルフ2(潜在意識)を極大化する」
となるでしょう。

セルフ1は往々にして、
「こういう場合、どうすればいいんだろう?」
「今の私は、これでいいのだろうか?」
「なんでこんな事も出来ないんだ!」
と非常に喧しいもので、
その喧しさがテニスの上達を阻害してしまう。
だから、セルフ1を黙らせる必要があるわけで、テニス初心者に最初にやらせるのは
「フォームとか一切気にせずに、ボールをラケットに当てて、ボールが飛んでいくのを見る。これをひたすら繰り返す」
というレッスンをするみたい。


これって瞑想のマントラに似ていますよね。
シンプルで単調な行を繰り返すことで、どんどんトランス状態になり、潜在意識が発露して、深い瞑想に入れるもの。

一方で、深い瞑想に入れない時は、頭の中でセルフ1が
「あの時あいつにああ言っておけば」
「この後でアレをやらなきゃ」
っていう風に、アレコレ五月蝿いもの。
これが雑音・雑念となって、セルフ2を阻害してしまうのです。



テニスのみならず、瞑想もに通ずる深くてシンプルな教えは、
コミュニケーションや仕事、健康といったトピックにも応用が利きます。

度々書いているけど、私はコミュニケーションが苦手で、
色々な人間関係本を読んだり、セミナーに参加したりして、努力してきたのだけど、
このプロセスで感じるのは、
「勉強すればするほど、コミュニケーションが不自然になっていく」
ということ。
身近にいるコミュニケーションのうまい人と較べれば、
私みたいな「ノウハウオタク」のコミュニケーションは非常に疲れる感じで、先の例で言えば、セルフ1を肥大化させる結果にしかなっていないのだと思います。

つまりは、逆効果。
じゃあ、セルフ1を黙らせて、セルフ2を最大化すれば、自然で上手なコミュニケーションになっていくのだと思うのだけど、そのためにはどうすればいいか?
って考えたら、
「ラケットにボールを当てて、ボールの軌道を見る」
を応用し
「質問、リアクションをして、相手の反応を観察する」
ということをひたすら繰り返すのがいいのではないかと思う。

NLPにおけるコミュニケーションの定義
「コミュニケーションとは、引き起こされた反応である」
をトコトン実践するわけね。
あるシチュエーションで女性に
「とっても素敵ですね」と言った(=刺激)として、「ありがとう」という反応が返ってくる場合もあれば、「バカにしてるの?」という思わぬ反応をしてくる場合もあるわけでね。

その場の空気や、その時の気分で、同じ刺激でも返ってくる反応が全然違う。

だけど、本やセミナーで頭の中をノウハウでタプンタプンにしてしまうと、
そういう「動的」なものが見えなくなって不自然なコミュニケーションになってしまうんだね。


なので、とにかく
「とにかく質問・反応して、相手の反応を観察する」
を単調に繰り返し、セルフ1を黙らせるようにします。

色々気付いたことがあるけど、それはまた記事にしますね。
ではでは。

モテるモテない以前の問題として、人間嫌いで人間関係がとても苦手な私。
それを何とか克服しようと色々勉強したり考えたり努力したりしている日々なのですが、
「あぁ!」
と気付いたことがあってね。


人間は人や世界、そして自分をもありのままでは観れないんですね。
何故かというと「メガネ」を通して観ているから。
恐れや不安ばかりが写るメガネを通して観ると、人や世界は怖いモノに見える。
一方では、愛と喜びにフォーカスできるメガネを通せば、人や世界は愛おしく、素晴らしいモノとして写る。

自分は、今、どんなメガネを通じて人や世界や自分を観ているのか?

でね。
特に人を観る場合、ついつい「レッテル」を貼っちゃうでしょ。
そうすると、“その人”ではなく”(自分で勝手に貼った)レッテル”を相手にコミュニケーションすることになるわけで、
それは人間と人間のコミュニケーションじゃなくなります。
「人間関係は鏡」の法則で、自分が見下していると、相手も(無意識に)それに抵抗するようになるってわけ。

たとえば20代前半の女性を前にして、あなたが男性だと仮定しましょう。
「自分は、若い女性が苦手だ」と思い込んでいたとすると、
“目の前の人その人”とコミュニケーションするのではなく、”20代前半の、若い女性”という質量も実体もないモノとコミュニケーションすることになる。
目の前の人ではなく、質量も実体もないモノ(概念)相手に言葉を投げかけたりあれこれやったりするものだから、
相手は人間として扱われていないなと感じ、関係だってうまくいかないでしょう。きっとね。


そんなようなもんで、
「最近の子ども」
「引きこもり」
「韓国人」
「鬱病患者」
「30代の女(男)」
「老人」
「社長」
「ゆとり世代」
「有名人」
これらはぜーんぶ、実体も質量もない、あなたや世間が勝手に相手に貼り付けているレッテルでしかないのです。
その人をその人として接し、尊重し、理解し、繋がろうとする姿勢が大事。


書いてみれば当たり前なんだけど、そこで冒頭に書いた私の「人間嫌い」に繋がってくるんだ。
というのは、私は色々な人がいるにも関わらず
「人間」と一括りにし、それを「嫌い」「苦手」と思い込んでいるけれど、
「人間」なんて人はいないんだってことに、つくづく(ようやく)気づけた。

一人一人それぞれに、
名前があり、
大事にしているものがあり、
好きなものがあり、
愛する人がおり、
愛され繋がっている人が居る。

私はそれを無視して、素通りして、ただ「人間」と一括りにしてシャットダウンし続けてきた。
自分を孤独の責め苦に追い込んでいるのは、誰でもない、私自身だったってことに思い至ったんです。


大体レッテルを貼るのって、ネガティブなものが多いでしょ?
つまり、ネガティブな感情を相手に抱いているということは、レッテルを貼っている何よりの証拠
だからレッテルを貼って、それに接している時点で、人間同士の豊かな関係は持てなくなる。
だから、異性からも、同性からも、誰からも好かれず、モテず、孤独になっていく。

それに気付いて、レッテルを剥がすには、
「何故この人はこんなことを言うのだろう?」
「なんでこんな行動をとるのだろう?」
と、ちょいと踏ん張って想像し、相手に寄り添って、その人の抱える痛みや闇を感じると、本当の理解に至ると思う。
間違っても、レッテルによる思考停止はしちゃいけない。
「どうせ、○○なんでしょ?」
という押しつけ・決めつけは、切実に理解して欲しいと願う人の心をとても傷つけることだから。



ところで、
『「ネガティブなレッテル」がダメなのであって、「ポジティブなレッテル」がいいのか?』
もしくは
『ネガティブかポジティブかに関わらず、レッテルを貼ること自体がダメなのか?』
という疑問が出てくると思うけれど、
私の現時点の考えは、

「レッテルを貼ること自体がダメなので、できるだけレッテルを剥がして、ありのままのその人と接することが大事」

となります。

何故なら、レッテルを貼るという行為は、前述のように「決めつけ」「押しつけ」であり、
自分としてはポジティブなつもりでも、相手にとっては暴力にもなり得る可能性があるから。
何より人は、自分の事を理解しようと寄り添ってくれる人を好きになる、「鏡」の性質を潜在意識に備えている生き物ですから。


自分の個人的な気づきを思いつくままに書いてみました。
あなたの参考にもなるなら、これ以上の喜びはありません。

それでは。

なんとなくブログを書く気がしなくって、そのまま放置する日々がつづいてたけど、
いろいろ思うところがあってね。


たびたびブログに書いているけど、私は人間嫌いで、人付き合いが苦手なんだ。
でも、人間として生きている以上は避けて通れないのもまた「人間関係」であって、
人生の喜びも悲しみも、チャンスも不幸も、辛い過去も楽しい思い出も、
すべては人を通じてもたらされるものです。

「人は一人では生きていけない」

なんてクサい話やお説教をしたいわけではなく、私のブログの読者の大多数よりも、
こと人間関係というトピックにおいては私は「劣等生」なので、
そんな私がこれから人間関係においては気をつけていこうと決めたことが二つあってね。
この場で決意表明してみたい。

多分、コミュニケーションに難がある人にも参考になると思うから。



◆ まず、相手に話させて、聴く

人間関係の目的は「動かす」ことにあると私は考えます。

・モノを売る
・契約を決める
・告白してOKをもらう
・ホテルへ連れ込み、セックスする
・欲しいプレゼントを買わせる
・子供を躾ける

まぁいろいろあると思いますが、
最終的にはなんらかの行動を相手に取らせるのがコミュニケーションの目的。

ただし、いきなり「やれ!」「買って!」「ヤラせろ!」なんて言っても、誰も思い通りになりゃしません。
じゃあどうするか?
「動かす」前に1ステップ踏む必要があるのです。

それが「話させて、聴く」ということ。
よく「聞き上手がモテる」なんて言いますよね。
確かにそうなんだけど、ラポール(信頼関係)ができていない人間に対して聴く姿勢で向かっても、
相手は話してくれないです。
天気や時事ネタみたいな当たり障りのない話をして、しばらくすると気まずい沈黙が流れる、あの感じね。


つまり受動的に「聞く」のではなく、積極的に「聴く」のが大事。
そのためには「質問」と「傾聴」が大事になってくるってわけ。
質問して、相手に話させて、それをちゃんと聴く。

そうすると、相手のことがわかってくるし、
人間関係は鏡だから、自分が相手のことを分かろうとしていると、相手も
「あぁ、この人は自分のことを分かろうとしてくれてるんだな」
とラポールが構築されてくるもの。



◆ 共感

世間一般でいう「共感」って
「自分と相手の感じている気持ちが一致すること」
って意味だと私は思うのだけど、
そうではなく、コミュニケーションをしつつも
「自分が今感じている感情」と「相手が今感じている感情」を”共に感じる”ことこそが、私は共感だと思う。

つまり、自分の感情と相手の感情は必ずしも一致している必要はないです。
とにかく、自分の感情も感じつつ、相手の感情も感じるようにしてみよう。


これは現実問題、トレーニングがいることで、
自分の感じる気持ちに振り回されるのでいっぱいいっぱいで相手までとても気持ちが向かなかったり、
そもそも自分の感じる気持ちがサッパリ分からなかったりする。

ま、だからこその「課題」なんだけどさ。
今は無理でも、いつかはできるように頑張りましょうねってことでね。


コミュニケーションって言語的なものと非言語的なものの両方で成り立っていて、単なる言葉のストロークだけだと表面的なコミュニケーションでしかないよね。
でも、非言語的なものも合わされば、深い関係になり得るでしょう。
そのために、相手の感情を「共に」感じてあげましょうね。



…という、自分に向けて叱咤激励する意味合いで書いた文章でございました。

ではでは。

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